投稿日:2022年11月18日 | 最終更新日:2022年11月21日
前回の続きのようになりますが、なぜわたしがカルマのような、あのような苦しい思いをしたかと言いますと、多分このことに対してのカルマだと思います。
(わたしが勝手にそう思っているだけなのかもわかりませんが、それに対してのカルマだといいと思っています。それだけのことをしましたから、)
それは、絶対にしてはいけないことをしてしまいました。
絶対にしては、いけないとわかっていましたが、どうすることも出来ませんでした。
まぁ、わたしが悪者になってそれで丸く収まればいいかなと思いました。
その結果のカルマだと思います。
(現在は、集団ストーカーのターゲットでありながら、少しでもダルマを心がけています。)
その絶対にしてはいけないというのは、何なのかと言いますと、それは猫に関係しています。
猫をさっ処分に出してしまいました。
それも二匹もです。
だから、これに対してカルマを受けても、わたしは文句の言える立場ではありません。
ありがたく、カルマを受ける立場でしかありません。
現世のうちに、解消ができてわたしは嬉しく思っています。
なぜ、そのようなことをしなければならなくなったかと言いますと、その頃はわたしが実家に戻ってくる前の話です。
その頃からなのか、それよりももっと前からなのか分かりませんが、母親が猫に餌を与えていました。
その猫が飼い猫なのか?
野良猫なのか分からない猫です。
(誰からも聞いていないので分かりません。)
母親が、可愛がりすぎたのか実家の横にある物置のような場所に居着いてしまった猫のようでした。
そして、ある時、近隣の人から呼び出しを受けました。
その近隣の自宅に行くまで、はっきりとした内容はわかりません。
その家庭に行くと、やはり猫のことのようでした。
その猫が夜になると、その近隣宅の縁の下に入ってうるさいということでした。
そして、契約書のようなものを渡されて、今後縁の下に入らないようにして欲しいとのことでした。
(今、考えると縁の下に入るような穴があったのかどうかも疑問ですし、もしあれば網でも置けば済んだと思いますが、秘密の入り口があったのかな?)
その時は、実家に住んでいなかったためにその状況を把握することができませんでした。
その状況が本当なのか間違っているのかも判断できない状態でした。
母親に聞いても分からないと云うでしょうし、どこかに逃せば、逃がしたでまた問題にされると思っていました。
(わたしの行動は、すべて見られていますからね。町中に電波の通信網が張り巡らされています。)
それで、正当な方法をとりました。
(保健所のような場所に持って行きました。)
それをしなければ、母親が悪く言われるのも困ると思いました。
まぁ、わたしはこの集団ストーカーで危険人物や悪者にされてますので、わたしが悪者になって丸く収まればそれはそれでいいと思っていました。
(その時は父親も居ましたので、心配して玄関まで見に来ていました。)
そして、その後わたしは自己破産し、離婚をして実家に戻りました。
そして、2015年に父親が亡くなり、その三ヶ月半後位に実家に猫がやってきました。
身内が飼っていたのですが飼えなくなったということで、この実家にやってきました。
母親も高齢で飼うことはできないので、わたしが猫と一緒に生活をすることになりました。
父親が亡くなってから、一ヶ月後くらいに生まれた猫です。
わたしは、この猫は父親の魂が猫となって実家に戻ってきたような氣がしていました。
(わたしはそう思っています。違うのかもわかりませんが、そう思いたかったです。)
そして、その二年後の父親が亡くなった月と同じ月にカルマのような出来事が起きました。
そして、そのカルマのような出来事を無事に乗り越えられたのも、本当に感謝・感謝です。
そして、罪滅ぼしと云う訳ではないのですが、この猫を可愛がって最後まで楽しく過ごそうと思っていたのですが、2021年の夜に突然いなくなりました。
その間にも、この連中によって随分と飼育の邪魔をされ続けていました。
この猫も、この実家に来た月と同じ月に居なくなりました。
わたしは、必ず戻ってくると信じてズッと待ち続けていました。
裏庭周辺は、毎日出ていました。
さほど、遠くに行くこともなく必ず戻っていました。
時々、工作の別の猫が頻繁にこの自宅周辺をうろつき、その猫に翻弄されていたようですが、それでも必ず戻っていました。
そして、猫がいなくなってから何日か後の夜に、神社に呼ばれたような行かないといけないよ
うな氣持ちになり、次の日に神社に参拝をするために神社に向かいました。
そして、賽銭箱に賽銭を入れようとした時に、ふと目に入ったものがありました。
それは、賽銭箱の横にありました。
それを見て、あぁ、そういうことなんだなと思いました。
その賽銭箱の横にあったものは、ネズミの死骸でした。
もう、猫は戻って来ないんだなと、思った瞬間でした。
もう、猫には会えないんだなと思いました。
猫は避妊の手術をしています。
わたしは、避妊の手術をしないように頑張ったのですが、それは無理でした。
語弊のある言い方になるかも分かりませんが、この連中の工作によって手術をせざるを得なくなりました。
(とは、言うものの最終的にはわたしの判断で、決めています。)
この手術の時に、多分ですよ。
これは、わたしの想像に過ぎませんが、多分チップを同時に埋め込まれたような氣がしていました。
なので、この連中に把握できるような状態にされていたと思います。
この猫が居なくなったというのも、今後のぺットのチップ埋め込みのきっかけ作りのような状況を作りだされたのだと思います。
(その状況が訪れるのを、虎視眈々と監視をしていたのだと思います。)
でも、ですね。
わたしは罪滅ぼしの途中を、ぶち切られたような感じでスッキリしません。
やり残しが出来たような感じです。
そして、契約書をわたしに渡した人も体調を悪くしたのか、何年もその姿を見ることがなくなりました。
(どうなったのか、ハッキリと聞いていないので分かりません。この人はわたしと歳が近いということもあり、小学生の頃はよく遊んでいた人です。)
そしてですね。
この実家に戻って、少し氣になっていることがありました。
わたしが、ここで育った幼い頃はその近隣の横に井戸がありました。
その頃から、使われていない井戸がありました。
蓋をされて使わなくなった井戸がありました。
しかし、実家に戻って氣が付いたのですが、井戸がありません。
井戸は無造作に埋めることができないようです。
井戸は、お祓いなどをしてから埋める方がいいようです。
それなりの手順を踏んで井戸を埋めたのならいいのですが、何もせずに埋めたのなら少し問題があると思います。
(でも、現在まで何事も起きていなければ大丈夫かな?)
手順というのは、お祓いや息抜きをされていればいいのですが、何もしていなければあまりいいことは言えないと思います。
まぁ、迷信だと言ってしまえば迷信なのでしょうけど、でも何もなければ迷信も存在していないと思います。
科学的な根拠がなくても、昔から存在している迷信ならその迷信に従うのも一つの手段だと思います。
(解体をされた業者の方も、そのようなことはご存知だと思います。それなりの手順をされていると信じたいと思います。)
現代社会は、カルマを避けることのできないような社会・環境になっていると思います。
これからは、少しでもカルマを避けるような生活が求められているような氣がします。
(カルマは誰でも背負っていると思います。しかしカルマは背負うものではないというのは明らかです。)
わたしは、この連中に散々邪魔をされやり残した事、やりたい事が沢山あるような氣がしています。
(全部が全部、具体的に頭の中に描かれている訳ではないのですが、)
人は誰でも楽・ラクをしたいと思っています。
面倒なものとか、複雑なものは避けようとします。
(わたしもその一人です。)
わたしは、時々運動をしています。
(まぁ、このわたしの運動をしている状態の情報も抜き取られているはずです。)
運動は、体を動かします。
体を動かすことは、嫌だという方もいらっしゃると思いますし、汗をかきたくないという方もいると思います。
考え方は人それぞれだと思います。
わたしは、運動とスポーツは違うと思っています。
運動は自分自身のために行うもので、スポーツは楽しむものだと思っています。
では、なぜ運動をするのか?
それは、ラクになるからです。
それは、後が楽になるからです。
苦しい後に楽があるということではないのですが体を鍛えることで、例えば、長距離を歩いても、重たいものを持っても何もしない体よりは楽に行えると思います。
若い時は、そのようなことは思わないのでしょうが、歳をとってくるとそのようなことを痛感すると思います。
(まぁ、これは人それぞれの考え方によると思いますが、)
これを仕事に置き換えても同じことが言えると思います。
現代社会は、お金で生活が成り立っています。
誰でも、豊かで楽な生活がしたいと仕事をし、その対価として報酬を頂いていると思います。
その報酬を少しでも多く頂くために、朝から晩まで仕事をされていると思います。
運動は、体を動かすので楽とは言えません。
仕事も、仕事が楽しくてという人は、ほんのわずかだと思います。
では、なぜするのか?
それは、その後が楽になるからだと思っています。
世の中には、道具というのもがあります。
それを利用すれば、楽になります。
(車があれば、長距離を歩く必要がありませんから、)
しかし、道具を動かすのは人間の体です。
楽だ、らくだといって、ラクダの背中に乗ってもラクでない場合があります。
(ラクダの背中に乗って揺られるのも体力がいる場合があります。)
何を信じ、何をすればラクになるのか?
人は楽を求める、面倒くさがりやで怠けものの面もあり楽をしたいと思っているはずです。
(少しでも報酬のいいものとか、楽にお金が稼げないかなとか、常に考えていると思います。)
その答えを探し求めている手段として、この集団ストーカーも存在しているのだと思います。
この集団ストーカーは、ある意味防犯ビジネスでもあると思います。
ある意味、わたしの周辺をうろつくだけで報酬が発生する詐欺まがいの防犯ビジネスだと思います。
うろつくだけですから、確かに楽です。
しかしですね。
この集団ストーカーを行っている加担者の方は、今までの社会状況がこれからも続くと思っているのではないでしょうか?
だから新しいものに目が向けられず、古いものを維持しようとしているのではないでしょうか?
そこにギャップが生じているのではないでしょうか?
そこには、嘘をタレ流しているテレビなどの報道を信じて、新しいものに目が向けられず新しいものを受け入れる意欲がなくなっているではないでしょうか?
(偉そうなことを言って申し訳ないです。ご勘弁ください。)
先ほども言いましたが、人間は怠け者の面もあり楽をしたいと思っています。
楽太郎とでもいいましょうか?
(楽をしようとします。)
だから人はそれに慣れてしまえば、それ以外のものを探そうとしないと思います。
だから、その情報を提供してあげないと、分からないし変わろうとしないのだと思います。
しかしですね。
現在は、表向き何事もないかのようにされて、水面下でかなりの変化が加えられています。
今現在の大掃除にしても全て水面下で行われています。
(まぁ、確かに表に出せば逃げたり証拠隠蔽をされますからね。)
だから、変えようと思えば変えられるのに変えられない。
それは、変化を求めない人間性にあるのかな?
(多分、今の状況を維持したいというのは分かりますが、)
まぁ、多分皆さんは仕事が忙しいですから、それどころではないはずです。
それは、しようがないですね。
一歩のふみ出しが必要なのは必要なのですが、それが出来ない。
それは、忙しさと忙しさの中でそのような情報を入手する余裕がないと思います。
これは、ある意味メディアの責任も大きと思います。
ウソばかりをタレ流していたメディアです。
(メディアによって、情報欠如にされているのかな?)
確かに、テレビを信じている方はテレビの情報しか受け取らないし、それが正しいと信じてしまいます。
これからの変化などは、微塵にも考えていないと思います。
考える余裕がないと思います。
生活を維持するたに、精一杯だと思います。
(今の搾取され続けている日本の状況だと、)
しかし、水面下では確実に変わっています。
でもまぁ、確かにね。
今の現状がある程度の豊かな生活が出来ていれば、それを維持したいと思うでしょう。
しかし、変化を求めなければその豊かな生活がいつまで続くかわからない状況にあると思います。
まぁ変化というのは、不安と云う氣持ちが付きまとうと思います。
それは、その先が見えないからだと思います。
一歩踏み出して、それは絶対に大丈夫なのかという保証がない。
だから踏み出せない。
(それは、よくわかります。それにその人に家族などの守るものが多ければ多いほど、)
これには、やはり提案が必要になると思います。
仮想の提案ではなく、現実味のある提案です。
わたしの例を挙げますと、わたしは集団ストーカーのターゲットにされ、第一級の危険人物や異常者にされています。
わたしには、一切そのような覚えはないのですが、そのような内容を信じ込んでいます。
果たして、この信じ込みはなぜ行えたのでしょうか?
なぜ、架空とも言えるような内容を、なぜみんなが信じ込んだのでしょうか?
この信じ込みが、これからの世の中の変化にも通用するのではないかと思います。
いわゆるトップ(信用のおける)が重要な地位を占めると思います。
トップの考えが、その人の人生に影響するような感じだと思います。
選挙にしてもそうだと思いませんか?
こうなるとか、こうするとか提案をし演説をされていると思います。
だから変われないのは、提案がないからだと思います。
水面下で行われているので変われないのだと思います。
そこには、出せない理由があるのだと思います。
ただ、証拠隠滅だけではないはずです。
確かに、人は実際にその状況を見せれば、それを信用し信じられると思います。
確かにそうですね。
確かに、その状況を実際に見れば、それを信じ変わることができると思います。
安心感が持てると思います。
しかし、これだとどうでしょう?
これだと、ただ単に答えを見せられただけだと思いませんか?
これだと、例えば農家の方からサツマイモをもらったような感じになりませんか?
(スーパーで購入するのも同じだと思います。)
じゃー、そのサツマイモを作ってください。
と、言われたら作れますか?
答えはある程度の段階で、入手できると思います。
しかし、答えが分かったとしても、その答えになるまでの過程が分かりますか?
わたしは、答えも大切ですが答えよりも、その過程がもっと大切だと思います。
またまた釣りを例に取り上げますが、たとえば撒き餌を一生懸命撒いて、釣りをしている人がいました。
そこへ、スタスタと別の釣り人が歩み寄ってきました。
そして、その撒き餌を一生懸命撒いている釣り人の横で竿を出し釣りを始めました。
そして、30cmもあるようなアジが釣れました。
これ、あなたも考えてください。
これ、他人の撒いた撒き餌でアジを釣っていることになりませんか?
これだと、撒き餌を撒いている人がいないと、アジが釣れないということになりませんか?
なので、この釣り人は他人の行動で左右されることになります。
魚は釣れても、自分自身には何のプラスにもならなと思います。
(これは集団ストーカーにも言えることだと思います。)
わたしは、長年釣りをしてきましたが、答えがもらえない時も多くありました。
その度に、試行錯誤を繰り返しながら、考えながら釣りをしていました。
今思えば、これで良かったのだと思います。
答えが出ていれば、それに特化して応用の幅が狭くなっていたと思います。
今のマスクにしてもそうだと思います。
安心感だと思います。
周りと同じことをしていることで、安心感と癒しが得られるのだと思います。
マスクをすることへの弊害は、そっちのけです。
これは、トップの撒いた撒き餌で、毒魚を釣り上げているようなものだと思います。
(正しいトップの撒き餌さで、美味しい魚を釣り上げその過程を知っておくのも今後の利点・プラスになると思います。)
現在は、本当に洗脳に近いものがあります。
その間違った洗脳が癒しにつなげられているのも考えもだと思います。
これは、実際に感じていないからだと思います。
食べ物は実際に口に入れて、美味しい美味しくないの判断ができます。
マスクやワクチンは、効果や効き目がすぐに判断が出来ないようにされていると思います。
なので、その過程と言いますか下調べが大切なのだと思います。
この下調べが大切なのは分かっているのですが、この下調べをする手段と言いますか媒体がなければどうしようも出来ないと思います。
(テレビや新聞では正しい情報が得られないので、)
若い人であれば、それなりの媒体を確保しているのでしょうけど、年齢が進むにつれて媒体の確保や使いこなしが困難になってきます。
安価で使いこなしも簡単な媒体の提供も政府の仕事だと思います。
ワクチンを勧めるだけの一方通行ではなく、ワクチンの洗いざらいを国民に知ってもらった上で、判断をしてもらった方がいいと思います。
(そうなれば誰もいなくなると思いますが、でもこれは両面を知った上での個人の判断です。)
人間は、面倒くさがりやで楽をしようとします。
過程をすっ飛ばして答えだけ得ようとしたり、過程を他人任せにすることもあると思います。
これは、年配の方にも簡単に情報が入手できる媒体の欠如に問題があるのかな?
なんてね。
山の中に入り、裸足になって山に手を合わせていると、
足の裏が『はっぱ、ふみふみ』?
全てが最高の書きあじで、スラスラと行われると思います。
では、